藤無山は兵庫県下では高峰の部類に入り、その名の響きも良く、期待を込めて登ったのは1992年4月のことだった。おおやスキー場側からのコースで登ったが、途中でクマザサのヤブコギが有ったものの意外とあっさり登れてしまい、物足りなく思ったものだった。それと樹木の豊かさに乏しくまた山頂の展望が今一つであったこともあり、少し期待外れの気持ちを抱かされた。そのためなかなか再訪をする気にはならなかった。しかしもう一度見直してみる気持ちで、初登から7年後の1999年5月に、大屋町の若杉からの尾根を登ってみると、これが結構手応えがあって面白く感じた。そこで三度目としては一宮町側からも登ってみるのも面白いのではと考えた。向かったのは2001年6月中旬のこと。
一宮町の公文川沿いの道を北上し、最奥の志倉集落を抜けた所にある空き地に駐車とした。公文川沿いの道は、志倉集落を抜けた所から舗装されていない林道に替わっていた。渓流に沿った林道は緩やかで、周囲の新緑が鮮やかだった。暫く歩くと林道は二手に分かれたが、西に向かう林道に藤無山の標識を見た。そちら側に登山道があると考えられ、迷わず西に向かった。その後も林道は緩やかに山の中腹を巻いていた。視界が開けて、周囲の風景が良く見えるようになった。やがて林道終点へ。そこには車が1台止まっており、先行の登山者のものと推定された。登山口の標識が見えたので、迷わず登山道に入った。登山道はすぐには上り坂とはならず、植林帯の中を巻き道のように付いていた。山道と言うよりも獣道程度で、足幅程度の所もあった。やがて傾斜がきつくなってきたが、その辺りで道が不確かになった。気にせず植林帯の急斜面を適当に登って行くことにした。足下の土が軟らかく、また下生えが多くてやや登り難かったが、木に捕まりながら登って行った。急斜面からやがてはっきりしないながらも尾根を辿る形になった。展望の無い尾根登りが続いていたが、標高も900m程になった頃、突然伐採地に出た。南面が大きく開けており、段ヶ峰から暁晴山まで播州の山々がくっきりと眺められた。その後はまた植林地に入った。そこを抜けると膝丈から腰丈までの広々とした笹原に出た。先ほどの伐採地より一層眺めが良かった。左手の須留ヶ峰から右手の一山まで別天地のような眺めだった。
暫し足を止めてその眺めを楽しんだ。その笹原の斜面を登り詰めると、俄然クマザサ帯に入った。雑木も点々と立っていたが、密集した背丈ほどのクマザサをかき分けながら登って行くことになった。獣の踏み跡を辿ろうとするも、な
かなか歩度が上がらなかった。そのまま山頂近くまで苦労するのかと諦めかけた頃、突然山道に出会った。こちらが辿っていたコースの近くに続いていた模様である。後はその山道を辿って山頂へと向かった。もうクマザサ帯も気にならず、緩やかになった尾根を登って行った。その小径を登り詰めた所が山頂だった。山頂は以前に比べてクマザサが刈られており、展望が良くなっていた。東に須留ヶ峰の尾根が眺められた。ただその山頂展望よりも氷ノ山を見ながら休憩をとろうと、主ルートとなる北からの登山道を少し下ることにした。その展望地に着くと、4名の登山者が休んでいた。中年のグループで、林道終点の車は彼らのものとか。静かな山を楽しむため、そこより少し下にある別の展望地で昼食とする。空は薄曇りに替わっていたが、氷ノ山から妙見山までの展望がはっきりと眺められた。その後、先着グループが下山したので、上の展望地に移動して休憩を続けた。下山は山頂より山稜を東に辿ることにした。山頂からはその方向に目印が付いていたが、
全くのササヤブだった。笹の丈は背丈以上あり、ネマガリダケかと思われた。往路のクマザサ帯とは比べものにならない密集度で、周囲は何も見えなかった。コンパスで方向を定めると、ササを体全体で押し分けなけながら下って行った。そのヤブコギで200mほど進むとず、ササは疎らになり、尾根は植林帯に替わってきた。尾根を東に辿っていると、程なく南面が広く伐採された地点に出た。そこも素晴らしい展望地で、しかもその位置より南東に向かって緩やかに支尾根が延びており、尾根の先には林道も見えていた。そこでその支尾根を下って行くことにした。まずは展望を楽しもうと小休止とした。どこまでも山が重なるのみの静かな風景だった。休憩を終えると後は尾根を辿って林道を目指すのみ。終始展望の良い尾根で、下るほどに周囲の山がせり上がってきた。難なく林道終点に下り着いた。その林道は、登りのときに二手に分かれた林道のもう一方のものだった。それを歩いて戻って行くが、所々土砂崩れがあり車の通行は不能になっていた。無理に作った林道の欠点を見る思いだった。分岐点に戻って来ると、後はのんびりと駐車地点へと戻って行った。
(2002/1記)(2010/6改訂)(2022/3写真改訂) |