赤穂市は千種川の下流に位置する街だが、千種川に沿った低山には多くの山城跡が残っている。山陽道や因幡街道が走っていることで、古代から交通の要衝地であったためかと思われる。その山城跡の残る山の一つが鍋子山で、ちょうど中山井堰の西に千種川と接するように立っている。高さは160mとごく小さな山なのだが、千種川に面する側は急斜面になっており、物見には最適だが攻めるには難しいと言う、山城としての条件を備えている。この鍋子山を登ろうと決めたとき、登山経路の知識を持っていなかった。そこで「相生」の地形図を眺めてルートを決めることにした。そして山頂の西を送電線が走っていることに注目して、その送電線の下の谷に登る道が付いているのではと考えた。
向かったのは09年4月の好日。好天続きで視界は幾分うっすらとしていたが、朝の空気には爽やかさがあった。鍋子山には直接向かわず、まずは対岸となる千種川左岸の富原地区側に立って、そちらから鍋子山を眺めた。本当に小さな山で、背後の山の方がずっと高かった。近くでこそ一つの山として見えるものの、離れてみたときは背後の山の支尾根にしか見えそうになかった。中山井堰のそばに架かる富原橋を渡って鍋子山と千種川に挟まれた県道90号線に出た。その県道を北へと走り、北麓側の枝道に入ると、山すそに小さな広場を見た。そこに入る手前にガードが置かれていたが、車の幅分の隙間があり、そこから中に入った。車を止めて外に出ると、そのそばから巡視路の始まっているのが見えた。期待通りに巡視路が見つかったことで、すんなりと山頂近くまで行けることになった。巡視路は適度な歩き易さで、緩やかに続いていた。谷筋に沿って登るが、時間はまだ9時前とあって、朝の冷気が残っていた。廃屋となった作業小屋のそばを抜けると、少し道の傾斜が増して送電塔の立つ位置に着いた。その先へも山頂方向へと尾根の上に小径が続いていた。ただ小径は進むほどにシダに隠され出し、足探りで進む所もあった。山頂が間近となってシダ帯を抜け出ると、城跡の範囲に入ったのか石垣の崩れた所が現れた。そのそばを通って僅かに登った所が山頂だった。平らにこそなっているものの広いとは言えず、出城があった程度と思われたが、今はすっかり雑木の世界だった。その木立を通して何とか千種川の流れは見えるものの、展望と言えるほどでは無かった。ここは城跡があった余韻を感じるだけの所のようだった。見上げると新緑がまぶしかった。一息入れればもう離れる気持ちが起きて来たが、登って来たコースを引き返すのでは少し味気なく思われ、ここはなだらかな北西尾根を下って行くことにした。そちらへは城跡が続き、三段の形で平らになっていた。ただ総て雑木に覆われていた。尾根を下り出すと、そこにも踏み跡程度の小径が見られ、意外とスムーズに下って行けた。そして木立が空いてきたかと思うと、その木立が切れて展望が現れた。前方は赤穂市から上郡町へと続く田園風景で、それを挟むように左手には清水山が、右手には大鷹山、黒沢山が見えていた。東には対岸の尾根が見えている。やはり城として好立地の山と思える風景だった。その先でも展望があり、その展望を楽しみながら尾根を辿って行くと、次第に傾斜が増してきた。ヤブっぽくもなってきたので、適当に西の方向へと下ると程なく、谷筋に下り着いた。その谷もヤブと言うこともなく適当に沢沿いを歩くと、小径が現れて僅かな時間で広場に出た。そこは巡視路入口から10メートルと離れていなかった。ごく小さな山だったが、見知らぬ山を無事登り終えた後の安堵感がじんわり湧いてきた。
(2010/1記)(2020/1写真改訂) |