姫路市の北西部に接する新宮町には古墳が多く出土している。知られている所では天神山古墳、吉島古墳、馬立古墳があり、また市街地に近い所には新宮宮内遺跡があって、この地が古代から住み易かった地域だったことを伺わせる。その新宮町にあって新宮宮内遺跡は市街地に一番近く、姫新線を挟んで市街地の北に広い面積を占めている。そしてこの新宮宮内遺跡を見守るかのように西に間近く迫っているのが大鳥山で、その姿は美しい三角形をしており、いかにも神が宿っていそうな山である。
05年5月15日の午後は、近くの低山を楽しもうと、この大鳥山に向かった。この山は、「播磨 山の地名を歩く」で紹介されているものの、登山道のことは書かれていない。ただ里山と言える山なので、小径ぐらいは有るだろうと軽い気持ちで向かった。駐車地点は新宮宮内遺跡の南を通る道路そばとした。そこより大鳥山に向かって行くと、その山裾は住宅地が取り巻いている。このような山はどこからでも登るというわけにもいかないので、住宅地の続くままに、山裾を南へと回り込んだ。南には姫新線が走っているのだが、その線路に沿って細い道路と住宅地が続いていた。たださほど歩かないうちに住宅地に切れ目があり、そこに山に延びる道を見た。その道に入ると奥は分譲地になっていたが、ほとんどが分譲されないままの荒れ地になっていた。その荒れ地が山裾に続いていた。そこから取り付くことにした。草やぶとなった分譲地から山に入ると、今度は細竹の笹薮となった。ただ密生はしてなかったので、ごく普通にかき分けながら進めた。山頂から南に延びる尾根が比較的緩いため、その尾根を目指して北東方向に登って行くと、次第に笹薮は薄れて、普通の雑木林に変わって来た。そして南尾根に着いてみると、そこにわりとはっきりした尾根道を見た。また赤テープも付けられており、割と歩かれているようにも思われた。その尾根道を登り出すと下草も少なくなり、木立も疎らになって、ずっと歩き易くなって来た。何かすんなりと麓から自然に登山道を歩いているかのような感じだった。また高木が少ないためか明るい尾根だったが、坂はややきつめで続いていた。そして登り始めて20分と経たないうちに山頂に着いた。中央にはぽつんと三等三角点があり、その周りを取り巻く木はほとんど常緑樹で、松の木が多かった。新緑の香りも強かった。そこは木立のために展望は無かったが、麓から見たときに東面には露岩が多く見られたので、展望を求めて少しそちら側に下ってみることにした。下り出してみると、地肌が脆いのか、岩に脚を載せると浮き石状になったりしたので、落石をしないように慎重に下る必要があった。ただ数メートルも下れば木立もばらけて、展望が現れた。北東から南東にかけての展望だったが、足元には新宮宮内遺跡、その先には揖保川があり、更に姫路市との町境尾根が南北に延びている。そして南には栗栖川が見え、その先に目をやると、栗栖川と合流した揖保川が龍野を抜けて瀬戸内に向かっていた。豊かな水の流れと、実りのある山、そして肥沃な大地の風景である。きっと古代の人もこの大鳥山の山上からこの風景を眺めていたに違いない。そして家並みが無ければ、さほど風景も変わっていないのではと思われた。再び頂上に戻ると、次にこの山頂からまだ道はつづいていないかと探ることにした。すると多少灌木にじゃまされるものの、まだ西へと続いているようだった。少し辿ってみたが、次第に薮っぽくなったので、長くは続けず引き返した。下山は登ってきた南尾根を赤テープのままに下ることにした。すんなりと麓に着けるのではとの考えからだったが、麓が近くなり笹薮が始まり出すと、道は不確かになり、赤テープも見えなくなった。そこは登りのときに笹薮をかき分けて合流した辺りで、どうも麓までの道は無いようである。取り付き点の分譲も近いことであり、後はまた笹薮を漕いで荒れた分譲地へと下りて行った。下山後に新宮宮内遺跡を少し散歩したが、その中央にある円形周溝墓を前にして大鳥山を見上げたとき、この山が何千年来この地の人の営みをずっと眺めていたのかと思うと、登る前とは違った目で大鳥山を眺めてしまった。
(2005/6記)(2019/1写真改訂) |