日曜日は原則的に安息日としており、ときおり午後に登山に出かけることがあるのだが、やはり夏は敬遠しがちになる。2008年の夏は暑い日が続いて、日曜午後はせいぜい京見山に登る程度だったが、8月も後半に入ると雨の続く日も現れて、ようやく暑さが峠を越したように思われた。8月24日の日曜日は朝こそ前日の雨を引きずって雲の多い空だったが、昼になって澄んだ青空が広がってきた。前日は京見山に昼食を兼ねて軽く登っただけで、あまり体を動かしておらず、そこで久々に日曜午後の登山を楽しむことにした。ただ8月でもあり、汗を十分にかくことを考えて、下山後はお湯に浸かることにした。そこで近場で安い湯はと考えて、温泉では無かったが、たつの市新宮町にある「ふれあいの湯」が思い浮かんだ。そして山はそこから近い所で見つけようと「安志」の地図を開いて目に付いたのが、高倉山の北向かいにある三角点ピーク(点名・中村)だった。標高も440mと手頃で、念のために点の記を調べると無理なく山頂に立てそうだった。その点の記を参考に、南麓の鍋子集落から歩くことにした。
たつの市の市街地を抜けて旧新宮町に入ったのは13時を過ぎた時間だった。そして国道179号線を西へと走って道の駅「しんぐう」のそばを通った。「ふれあいの湯」はその道の駅に接して建っている。道の駅を過ぎると程なく新宮町篠首へと通じる県道434号線が国道から分かれたので、その県道へと入った。姫新線と栗栖川をまたぐ橋を越すと、道は高倉山を回り込むように北へと向かっている。篠首集落へは更に小さな峠を越して入るのだが、その峠へと上り坂になる手前が鍋子集落だった。そのこぢんまりとした集落の北はずれに車を止めた。その位置より440mピークの西の谷へと林道が始まっているのを見たので、その林道をアプローチとして歩くことにした。上空はすっかり晴れ上がっている。林道はけっこう荒れており、四駆以外には厳しそうだった。その道を少し歩くと巡視路が山中へと分かれていた。その道なら尾根まで行けそうだったが、林道に興味を持っていたので、今暫く林道を歩くことにした。林道は更に荒れて車の通行は不可能ではと思えたとき、あっさり終わってしまった。歩き始めてから10分と歩いていない。巡視路に戻ることも考えたが、山の様子がヤブでも無さそうなので、山頂から南に延びる尾根を目指して、北東方向へ適当に登って行くことにした。すぐに目印テープを見たので、山頂へ続くのかと期待したが、さほど登らぬうちに消えてしまった。そうなると登り易いところを選んで登って行くだけだった。多少足元の小石が滑り易かったが、木立は空いており手頃な枝に掴まりながら無理なく登って行けた。中腹を過ぎると雑木の尾根を登る形になり、確実に高度を上げた。そのまま南尾根に出るのかと思っていたところ、その主尾根が間近となったとき巡視路に合流した。その巡視路の来ていた方向を見ると、どうやら林道を歩き始めたときに見た巡視路がここまで続いていたようだった。その巡視路を歩き出すと2,3分で送電塔の前に出た。そこは尾根上で、地図を見ると標高はもう400mに近い位置だった。一帯は芝地となって開けており少しは展望もあったが、まずは山頂へとすぐに離れた。後は山頂までひたすら緩い尾根を登って行くのだが、この鄙びた低山には十分な道幅で尾根道が続いていた。これは気楽な道と思って進み出すと、クモの巣によく引っかかった。どうも夏の低山はクモの巣が煩わしいものである。それでも歩き易いことに変わりは無く、クモの巣を払いながらゆっくりと山頂を目指した。この尾根道は終始木立の中を歩くとあって涼しい中を歩いて行けた。そしてごく順調に山頂に出た。送電塔の位置から10分での山頂だった。その山頂はすっかり雑木に占められており、しかもけっこう高木が揃っていて展望とは縁が無かった。ただ涼しさだけはあった。一息入れたところで、やはり展望のある所で休もうと先ほどの送電塔の位置まで引き返すことにした。送電塔は陽射しがきついので、近くの木陰で改めて休憩とする。そして汗が静まったところで、この山の位置をよく知ろうと展望を楽しむことにした。展望としては東の方向が比較的良く、足元には篠首の田畑が広がっており、その先には伊勢山までが一望だった。位置を変えれば南西に田幸山も見えていた。ついでに悪いこととは知りながら送電塔に少し登ってみると、北には水剣山が覗いていた。展望を楽しんだ後は木陰に戻って軽く昼寝も楽しんだ。ごく低山でもこうして涼しく過ごせるのは有り難いことだった。下山は巡視路をひたすら下ることにした。巡視路は南西方向へと向かっており、ごくスムーズに下って予想通りに林道に合流した。結果としてこの440mピークは巡視路を歩けばごく短い時間で山頂に立てそうで、けっこう気楽な山と言えそうだった。下山を終えると予定通りに「ふれあいの湯」に立ち寄って汗を流した。近場ながら午後のひとときをこうして過ごせば、十分に充実した時間を過ごせたとの思いで帰路に付いた。
(2008/9記)(2016/5改訂) |