今は佐用町となっているが、旧南光町は南北に細長く、東西を長い尾根で塞がれている。その地形のためか、その尾根で接する東の山崎町(宍粟市)、三日月町(佐用町)と、また西の佐用町との間で、幾本も峠道が付いている。おかげで尾根上のピークに向かうときは、この峠道を利用するのが山上に出る早道となる。黒山を登ろうと考えたとき、その峠道の一つである三日月町上真宗集落と南光町段集落を結ぶ道で尾根に出て、中国自動車道に近い442mピークを目指すことにした。2005年8月の最終日曜日のことで、朝から澄んだ青空の広がる日だった。
宍粟市山崎町と南光町を結ぶ県道53号線を山崎町葛根で離れて、三日月町へと向かう車道に入った。山あいの道で、その両側の山肌には植林の崩壊地が目立っていた。この車道を走って最初に出会うのが上真宗集落である。この集落から始まる峠道を探すのだが、車道が山の方向に向かっているのが見えた。その車道に入ると、すぐに小さなお堂の前に出た。そこにお堂を清掃する婦人がいたので峠道のことを尋ねると、その車道の先に続いているとのことだった。また村中からの道もあるとのことだった。ついでにピークのことを聞くと、字名の黒山で呼んでいることを教えられた。車はそのお堂のそばに止めると、そこからて歩き出した。車道はすぐに終点となり、そこは広々とした空き地で大きな工場がそばに建っていた。また空き地の一角には不動明王の祀られた廟も建っていた。車はそこまで入れるため、廟に来たと思われる車が止まっていた。そして峠道は車道の終点の先に見えていた。その小径へと向かうと、小径は集落から続く形になっていた。土道ながら緩やかな幅広の道で、小型の四駆なら十分に通れそうに見えた。歩き出すと、足元に上真宗集落が木々を通して足元に見えていた。道はあくもでも緩やかなまま続き、10分ほどでもう峠に着いてしまった。ほとんど登った感じも無く峠に着いたため地図で確認すると、歩き始めた地点との標高差は60mほどしかなかった。その峠には峠らしく一体の石仏ともう一体、石仏に似せた石体が置かれていた。そこより尾根を北へと歩き出した。尾根にはか細く小径が付いており、無理なく登って行けた。また周囲は植林だったり雑木林となったりしたが、下生えも無く木立も空いていたため、楽な登山と言えた。それと尾根では涼しげな風もあり、蒸し暑さは感じなかった。漸く夏が終わりに近づいたと感じられた。ただ展望が無いため、黙々と登るのみ。さほどきつさの無いまま始まった坂は、途中では平坦な感じにさえなったが、小さなピークを越して登り直す所より傾斜がきつくなった。それも50mほどの登りで終わり、黒山山頂に到着となった。一帯は木々が切られて少し開けており、そこにぽつんと四等三角点(点名・真宗)を見た。そして尾根の途中から聞こえていた車の音が、一段と大きく聞こえてきた。北の間近を通る中国自動車道の音だった。まずは三角点そばの倒木に腰掛けて一休みとした。最後の急坂登りでけっこう汗をかいたが、山頂の風は一段と涼しく、気温はと見ると26℃だった。夏の終わりと言うよりも、もう秋の気配さえ感じられた。山頂は樹林が周囲を取り囲んでおり展望は無かった。ごく平凡な山頂の雰囲気だったが、一息入れたところで少しは周囲を見たくなり、一帯を探ってみることにした。すると少し東よりの位置に、松の大木が枯れて倒れている所があってその一角の木々が空いていた。そこに立ってみると、木々の間からだったが東向かいの尾根が眺められた。そちらには高丸山があるはずだったが、今見えている尾根の一つ先となり、頂が見えるか見えないかといったところだった。他にも展望は無いかと、更に辺りを探ることにした。この山頂は西へとなだらかになっており、そちらに少し歩き出すとまた松が多く枯れた所があり、その中に枯れた大木が一帯の低木を道連れに倒れているのを見た。そしてそこだけがぽっかりと空が見えていた。但し地表からは展望は無かった。そこで斜めに倒れている枯れ松にムリヤリよじ登ることにした。少々危なかしかったが、枯れ松の上に立つと、見事に展望が広がった。北の方向となるが、堂々とした山がやや遠方で周りから抜きん出ていた。後山だった。その後山を眺めながら思ったことは、後山は佐用郡はもとより、もっと南の姫路、相生辺りからも、ちょっと展望のある山なら必ずと言ってよいほど眺められ、播州北西部の盟主と言えそうだと言うことだった。その後山の右手には木々の隙間からながら三室山も見えていたが、後山の大きさにはかなわなかった。その後山を後壁として南光町の上三河辺りの風景が広がっていた。もうこの展望を得たことで十分な思いとなって木を下りた。この後は無理をせず、登ってきたコースで駐車地点へと引き返した。
(2005/9記)(2012/11改訂)(2022/2写真改訂) |