佐用町で一際高い山は日名倉山になるが、この日名倉山の西に位置する郷鴫山も標高は800m近くあり、佐用町では高峰の部類に入る。その郷鴫山を全く情報を持たず手探りで登ったのは1996年12月のことだった。そのときは東麓の奥海集落から登ったのだが、郷鴫山の三角点ピークは雑木に囲まれていた。その木立から日名倉山が大きく見えており、それをもっと良く見ようと北へと尾根をたどったとき、次の789mピークで大展望に出会った。そこは丈の低い笹が広がる丘の雰囲気があり、そこに日名倉山がこれ以上は無い大迫力で眺められた。その日は快晴で、そのすっきりとした姿に感動したものだった。その素晴らしい出会いにもう十分との思いになったが、年月が経つと共に大展望が懐かしくなってきた。訪れるのなら落ち葉道を楽しめる晩秋と考えて、その再訪を実行したのは2008年11月中旬のことだった。但しこの郷鴫山だけを目指したく無く、岡山との県境尾根歩きを組み合わせることにした。郷鴫山の西向かいの尾根が県境尾根になっており、ちょうど郷鴫山と対峙する位置に三角点記号(点名・山根)が見えたので、その634mピーク辺りから県境尾根歩きをスタートして北へと歩き、郷鴫山の尾根と接した後、郷鴫山へと向かう計画とした。
季節は播州の低山も紅葉を楽しめる季節とあって、勇躍国道373号線をひた走った。向かう先は佐用町の中でも一番奥深い里ではと思われる若洲集落。国道を上石井で離れて佐用川沿いの車道を遡る。その道を進めば奥海集落へと向かうが、その途中で佐用川から若州川が別れたとき、その若州川沿いの道へと入った。そして行き着いた先が若州集落だった。一瞥したところ10軒ほどの小さな集落だった。その集落の入り口に若州コミュニティ会館が見えたので、その前に駐車とした。若州川沿いの集落の道を歩き出す。空は雲が多いものの晴れており、天気予報の曇り空とは違っていた。若州集落は家こそ並んでいたが、車は見かけず人の気配がほとんど無かった。敷地の入り口を塞いでいる家が多くあり、離村が進んでいるのかも知れなかった。集落を抜けると小さな神社があり、その先の道は林道の様相となった。林道は若州川沿いを続いたが、落ち葉が積もっていたり落石があったりして、あまり使われていないようだった。また軽四でないと通れなさそうな道幅でもあった。その林道から県境尾根までの破線路が地図には書かれていなかったため、地形図から取り付き地点を決めることにした。そして神社の位置から300メートルほど進んだ位置に堰堤記号があり、その辺りからが一番無難に思われた。堰堤が見えてくるとその辺りは植林地になっており、西の斜面に適当に取り付いた。まずまずの登り易さで、登るほどに周囲の木立は雑木林に変わってきた。その自然林は紅葉が進んでおり、中には盛んに木の葉を散らす木もあり、その落ち葉の音が絶えず聞こえていた。地表はその落ち葉ですっかり隠されていた。登るほどに傾斜は緩やかになり、歩き易い所を選びながら県境尾根に出た。尾根に小径は見えなかったが、木立は程よく空いていた。また緩やかな起伏とあってごくスムーズに歩いて行けた。その尾根をのんびりと歩いているとき、突然作業道に出会った。そこは緩く尾根を下っていたときで、その位置が作業道の終点だった。作業道はそこより北へと尾根から僅かに離れた位置を平行して続いていたが、持っていた地図には載っていないため何処からの道かは分からなかったが、尾根から離れないうちは歩いてみることにした。そして少し歩いたとき、前方に送電線が尾根を横切っているのが見えてきた。その送電線も持っていた地図に載っていなかった。地図は平成4年測量と少し前のもので、そろそろ買い換えないといけないようである。その送電線が間近になったとき、尾根に巨大な送電塔の建っているのが見えてきた。そこは絶好の展望地のようであり、また背後のピークにそろそろ三角点があってもよい頃合だった。そこで作業道を離れてまた尾根を歩くことにした。青空の下に送電塔が明るく見えていた。そして近づくほどに西に展望が広がってきた。近い山で目立つのは星祭山に高照峰で、遠くには那岐山も望まれた。翻って東を見ると、紅葉に包まれたピークが間近に見えたが、それが郷鴫山かと思えた。その景色をさっと見て、背後のピークへと足を進めると、そこに期待通りに四等三角点(点名・山根)を見た。これで漸く現在地がはっきりして一安心だった。そこは周囲を雑木に囲まれていたので、展望のある送電塔の位置に戻って小休止とした。そしてもう作業道には戻らず、尾根歩きで北へと歩を進めた。周囲はおおむね自然林で、そのときは気持ちよく歩けるのだが、植林の混じることがあり、そこに間伐された倒木が放置されたままになっており、それを越すのに難儀させられた。それが何度か続いた。その尾根歩きの間も作業道はごく近い位置をずっと続いていた。ひょっとして作業道はそのまま北辺まで続くのではと思えだしたとき、尾根を横切って岡山側へと尾根から離れてしまった。その先で尾根は東方向へと折れて、県境の北辺が近づいてきた。その北辺へと歩くほどに尾根はいっそう歩き易くなり、紅葉も一段と進んできた。ただ少し雲が増えてきたようだった。県境尾根は郷鴫山の尾根が合流する手前で下り坂となり、地図に破線路が記された鞍部へと向かうが、その鞍部に下り着くと、そこが何とも良い雰囲気だった。一帯は広く平らになっており、そこに疎らに雑木が広がっていた。そして地表はその落ち葉に埋め尽くされていた。まるで公園の一角にまぎれ込んだ感じだった。木漏れ日があちらこちらを照らしており、風が吹けば木立からいっせいに木の葉が落ちてきた。その感じの良さに足を止めて、暫しの昼休憩とした。その位置からやや急坂の東斜面を登って789mピークに着く。前回は郷鴫山からそのピークに着いて点名・杉ノ奥(824mピーク)へと向かったのだが、この日はその三角点ピークには立ち寄らずそのまま郷鴫山へと向かうことにした。その辺りの地形はなだらかになっており、一度南西方向へと下ってしまいそうになり、すぐに東へ軌道修正する。一帯は自然林が疎らに広がっており、下生えも少なくどこでも歩ける雰囲気だった。正しい尾根に出て南へと尾根を歩き始めたとき、南東方向にススキの広がっている丘が見えてきた。その地形に記憶があり、好展望の789mピークと思われた。そちらに向かうとその通りのようで、左手の東の方向にどんとばかりに日名倉山が現れた。昼前は雲の多かった空だったが、その頃には青空が広くなっており、日名倉山が明るく見えていた。その優美な姿を見たくて来たようなものなので、願いがかなった思いだった。更に良く見ようとススキの原に近づくと、ススキは背丈を越える高さに繁茂しており、逆に展望が悪くなってしまった。以前の記憶とは違ってしまっていることに戸惑いながらも高い位置へと歩いて行った。そして一番高い所では思えたとき、そこにポツンと小ぶりの岩が現れた。ひょっとしてと思いながらその上に立ってみると、期待通りに大展望が広がっていた。日名倉山だけで無く、北には後山から駒ノ尾山へと続く尾根も雄大だった。午前の視界は少しうっすらとしていたのだが、午後はすっきりと澄んでおり、どの山もくっきりとした姿で眺められた。岩の上はかっこうの休憩場所とあって、展望を楽しみながらのんびりと過ごした。その展望岩から南を見ると、郷鴫山山頂がごく近くに見えていた。一休みを終えて山頂に向かう。記憶では雑木に囲まれているはずの山頂だったが、よく見えるようになると、東から北にかけてが広く伐採されていることが分かった。新しく植林地にするためか、尾根には害獣避けネットが張られており、それに沿って登って行く。左手には日名倉山が眺められての展望ハイキングだった。その途中でネットに角を絡めてしまって白骨になった鹿の死骸を見た。残酷な光景だが、これは植林地では何度か目にするものだった。そして着いたピークは地図では490mを越えて一帯で一番高いピークだったが、そこには三角点は無くいま少し歩いた隣りのピークが三角点ピークだった。どちらも好展望のピークに変わっており、すっきりと日名倉山、後山が眺められた。郷鴫山もすっかり展望の山に変わったようだった。但し、植林が育つまでの展望とは言えそうだった。この山頂に立つことがこの日の最終目的だったため、後は下山に向かうのだが、どう下るかははっきり決めていなかった。おおよそは尾根を南へと下って若州集落のそばにでも下りようかと考えていたのだが、山頂の近くに送電塔の建っているのを見て、その送電線経路を下ってみることにした。持っていた地図には送電線が載っていないため、その経路をおおよそ推測して南西方向へと歩き出す。すぐに送電塔の立つ位置に出た。そこから送電線経路の西へと向かい出すと、巡視路の付いているのが分かった。これはラッキーと、巡視路のままに下って行くと、次の送電塔の前に出た。そこは西に展望があって、朝に歩いた県境尾根が間近に眺められた。但し巡視路はそこまでのようで、その先は西の谷へと急斜面になっていた。その急斜面を見ると植林地になっており、また地図で確かめると谷に沿う林道までの標高差は250メートルほどのため、慎重にさえ下ればさほど厳しく無さそうだった。実際下り出すとその通りで、掴まり易い植林を伝いながら下って行くと、25分ほどで林道に無難に下り着いた。その辺りの林道は道幅も狭く落石もあり、もう使われていないようだった。後はその林道を歩いて戻るだけだった。空を見上げると雲はほとんど見えずすっきりと晴れており、天気予報は完全に外れたようだった。
(2008/12記)(2012/8改訂)(2020/7改訂2) |