乗鞍岳を地図で見ると、槍ヶ岳から奥穂高岳を経て焼岳へと続く尾根は安房峠へと低くなるが、そこを過ぎて安房山、十石山と再び高度を上げて、その先で大山塊を見る。それが乗鞍岳で、山域として北アルプスの一峰に数えられることもあるようだが、遠くから見ると南の御嶽山と同じく周囲に連れ立つ高峰を持たず、独立峰のおもむきで佇んでいる。御嶽山と似ていると言えば、その乗鞍岳の名もピーク群の総称で、それぞれのピークには摩利支天岳、大日岳、薬師岳、不動岳など宗教的な名が付いている。そして最高点ピークの剣ヶ峰は3000mを越しており、堂々たる高峰である。ただその大らかな山容には道路が付け易かったと見え、山頂に近い標高2700mの畳平まで車道が通じている。そして夏の季節ともなれば、ひっきりなしにバスが大勢の観光客や登山者を山上へと運び、山上は一大観光地の様相を見せることになる。
その乗鞍岳を登るに当たってはこの山のみを目指す気持ちは無く、他の山との組み合わせでうまく日程が合えば訪れようかぐらいの気持ちで考えていた。その考えに合致したのは2005年7月下旬のことで、新穂高側より焼岳、西穂高岳と予定通り登り、予備日としていた一日が空くことになった。そこで近くでもあり、登山として容易な乗鞍岳を訪れることにしたものである。7月25日の朝は新平湯温泉で迎えたが、空はどんよりと曇っていた。それでも雨でも無い限りは雰囲気だけでも味わおうと、乗鞍岳を目指すことにした。乗鞍岳への道は全て交通規制の対象で、バス以外は走れなかった。そこで「ほおのき平」のバスターミナルへと向かった。ターミナルに着くと、山上の天気は晴れとの情報が出ていた。ガスかと考えていただけにこれはうれしい情報で、気分良く8時半発のバスに乗り込んだ。スカイラインに入るとすぐにガス帯に入ったが、中程まで来ると空は明るくなり陽射しも現れた。これは晴れると期待を大きくしたが、またすぐにガスが濃くなり、そのままどんどん山上へとバスは進んで行った。そのうちに車窓の風景は樹林帯からハイマツ帯へ、そして火山らしく荒れた地肌がむき出しの風景へと変わって来た。もう終点の畳平も近くなっているのにガスの薄れる気配は無く、そのまま終点到着となった。辺りのガスは一段と濃く、近くの建物もうっすらとしか見えていなかった。ただ天気としてはガスがかかっているだけで風も無く、少し肌寒さを感じるものの過ごし易かった。予定通り最高点の剣ヶ峰を目指すことにした。ガスで登山道が見当たらないため、山岳パトロールの詰め所を訪れて位置を教えてもらった。その登山道を歩き出すが、道は登山道と言うよりも車道と呼べそうな道で、実際、許可証を付けた車が走っていた。道は始めに鶴ヶ池を巡るように付いていたが、本当に緩やかな道で気楽な登りだった。景色は見えないものの、季節がら高山植物が見頃で、中でも目を引いたのはコマクサだった。その淡いピンクの花は高山植物の女王と呼ばれるのに相応しい可憐な姿だった。登山者は少なく前後にちらほら見えるだけで、至って静かだった。ガスに包まれたまま登山は続くのかと思いかけた頃、ガスの薄れる気配が現れた。ガスが割れてコロナ観測所が見え出したのである。すぐガスに閉ざされたが、その後は現れては隠れるを繰り返し、次第に現れている時間が長くなった。はっきりとガスが薄れ出したのは肩ノ小屋に着いた頃だった。車道は肩ノ小屋までで、その先は漸く山道らしくなった。一帯は火山岩塊や火山礫の積もった風景となり、乗鞍岳が火山であることが十分に分かった。その中を登山道が続いていた。上方を見ると山頂近くまではっきりと山肌が見えており、上空には青空も見られるようになった。ガスが薄れて前方が見えるようになると、登山道にいっぱいの人が登っているのが分かった。ただ登山者は初心者が多いのか、簡単な登りなのにあえいでいる人を多く見かけた。それに足も遅いようだった。こちらもゆっくり登っているのだが、それ以上にゆっくりな人が多く、何十人と抜くことになってしまった。そして権現池が見える所まで来ると、山上のガスはほとんど消えて、はっきりと山頂が見えていた。そして足元には火口湖の権現池がコバルトブルーの水を湛えていた。そこまで来ると山頂は目前になっていたが、陽射しが強くそれを遮る木陰も無いため、砂礫の山肌を一気に登るとはいかず休み休みの登りになった。それでも肩ノ小屋より30分ほどでの山頂到着となった。狭い山頂だったが、そこに乗鞍神社があり、そして大勢の登山者がいて大賑わいだった。月曜日とあって空いているかと思っていたのだが、登山者に学生が多く、夏休みを利用しての登山のようだった。何とか権現池を見下ろせる一角に座を占めて休憩とした。その頃にはまたガスが現れ出しており、西隣の大日岳はガスに隠されることが多くなっていた。また権現池もガスに隠されたり現れたりの繰り返しで、さすがに3000m峰の山頂に居ることを実感させられた。ガスの薄れているときは畳平まで見えることもあったのだが、概ね見えるのは乗鞍岳の山上風景までで、遠くの山は雲に隠されていた。山頂では食事を採らずただじっとしていただけだったが、それでも30分ほど佇んでいた。ガスのかかっている時間が長くなり、また昼どきが近づいたことで一段と登山者が増えたため、下山することにした。もう権現池はガスで見えていなかった。登る人も下る人も多いためマイペースとはいかず、人の流れのままに下って行った。そして肩ノ小屋に着いたとき中学生の大集団に出会った。おそらく200人は越していそうで、この月曜日でこの状態なら週末はいったい何人が登るのかと考えると、夏の乗鞍岳は完全にオーバーユースの山と言えそうだった。帰路では畳平のそばにあるお花畑にも立ち寄った。ハクサンイチゲが大群落を作って見頃を迎えており、目を楽しませてくれた。そのお花畑は登山者よりも観光客の世界で大勢の人で賑わっていた。本当に夏の乗鞍岳は登山としても観光としても何とも賑やかで、静寂とは縁のない世界だということが身にしみて分かった。
(2005/8記)(2023/8写真改訂) |