三十三間山とはいかにも京都の三十三間堂と関連のありそうな名だが、事実その通りで、平安時代の後期に三十三間堂が創建されたとき、この山から棟木を切り出したことから呼ばれるようになったとか。2011年の5月連休の中で、一泊二日で若狭の山を登る計画を立てたとき、初日の5月3日に登る山として選んだのは、敦賀富士と呼ばれる野坂岳で、二日目の4日はこの三十三間山だった。その名に惹かれたことと、ガイドブックの「福井県の山」を見て、山頂近くに広がる草原の風景に興味を持ってのことだった。
前夜に泊まったのは敦賀市内のホテルで、そこから三十三間山のある若狭町の倉見までは距離として30kmほどだったので、1時間とかからずに登山口に着くことが出来た。登山口は国道27号線からごく近い位置にあり、その駐車場には立派なトイレやコースの案内板まであって、有名山と変わらぬ整備のされようだった。まだ9時前だったが、既に6,7台の車が止まっていた。コースは林道歩きで始まった。害獣避けゲートを通ると、林道はほぼ平坦な道として沢沿いを南東へと続いた。この日の空は前日と同じく薄ぼやけた雲の広がる空で、陽射しは少なかった。周囲は植林地になっており、薄暗い中を歩いて行く。沢沿いを歩くようになると方向は北へと変わってきた。沢は水量があり、進むほどに渓谷美を見せてきた。周囲は雑木林も見られるようになり、ときおり現れる陽射しが新緑の葉を光らせていた。20分ほど歩くと林道は二手に分かれたので、案内標識に従って右手の北東方向に向かう細い林道に入った。その林道も少し登ると、沢の位置で終わることになった。そこが最後の水場になっており、一組のハイカーが休憩していた。沢には丸木橋がかかっていたが、朽ちかけており少々危なっかしかった。その先は山道となった。急斜面を登るのだが、道はつづら折れになっていたので無理のない登りだった。斜面を登っているときは周囲は植林になっており、尾根に出ると自然林の佇まいとなった。その尾根の傾斜も緩くは無かったが、一定のリズムを持って登って行けた。低めの気温だったことも良く、しっかりと登って行ける感があった。その尾根を登るうちに左手、北の方向に展望の開けることがあったが、視界はひどかった。前日も黄砂のためにどんよりと濁っていたのだが、まだ黄砂の影響が続いているようで、前日よりも悪いのではと思えた。近くの山も薄ぼんやりとしていた。尾根の夫婦松は休憩ポイントだったが、足を止めることも無く通り過ぎる。尾根は相変わらず少しきつめの傾斜で続いていた。周囲の木々はいつのまにか新緑は見えなくなって、裸木の姿になっていた。ときおり下山してくるハイカーとすれ違った。そろそろ県境尾根が近いのではと思え出した頃より風が出てきて、肌寒さを覚えるようになった。周囲はブナなど太い木が多くなっており、その根が地表を這っていた。そのとき「風神」の標識が現れた。それは登山コースから少し離れているようで、枝道に数十メートルほど歩いた所に石碑が建っていた。供養塔と書かれていたが、風神の名からして疫病のはやりを鎮めるためのものかと思われた。登山コースに戻って僅かに登った所で県境尾根に合流した。標識があり北に向かえば三十三間山で、南は轆轤山に続くようだった。そこは当然、三十三間山に向かう。県境尾根はひたすら緩やかで、辺りに高い木は見られなくなっていたため、三十三間山が前方に優しげな姿を見せていた。また笹原がずっと広がっていた。写真で見た通りのいかにも優しげな風景だったが、冷たい風が吹いておりそれを我慢しながら歩くことになった。空も黒い雲が広がっていた。ただ雲に厚みは少なく、ときおり陽射しが漏れてきた。笹原と思っていると中央は芝地になっており、その辺りは草原と呼べそうだった。それも歩くうちにまたササが辺りを占めるようになってきた。そのササはほぼ枯れようとしており、よく見るとかじられたようになっていた。どうやら鹿の食害によるもののようで、鹿の糞がいたる所に落ちていた。いずれ兵庫の山と同じように笹が消えてしまうのかも知れなかった。まずは山頂に立とうと休まず進んで行った。その笹原と山頂との標高差は60mほど。上り坂が始まると灌木が登山道を囲むようになった。その灌木林の中を登るうちに坂の傾斜が緩むと、もう山頂は目前だった。山頂も灌木林になっており、数人が休めるスペースだけ開けていた。着いたときはちょうど陽射しが現れており、三角点のそばで一休みとした。その山頂には他に人影は無く、パートナーと二人きりなので静かなものだった。風もなく穏やかで休むには良かったが、展望は無かった。そばでカタクリがちらほら咲いていたので、それを見て目を楽しませることにした。その山頂にラジオの音をまき散らせながら単独者のハイカーが現れた。そのデリカシーの無さにこちらは退散とする。山頂を離れて草原の中央に戻ってきた。ちょうど陽射しが現れており、芝に腰を下ろして再び休憩とした。その陽射しが長くは続かず消えてしまうと、さっと寒くなってきた。どうもここものんびりとは出来ないようだった。そのとき尾根の南の方、轆轤山の方向を見ると、そちらにも登山道が続いており、樹林もあって風除けが出来そうだった。そこでそちらに移動して休むことにした。分岐点まで戻って轆轤山の尾根に入った。そちらも緩やかな尾根で、少し灌木の茂った所があったが、登山道ははっきり続いていた。711mピークが近づいたとき、少し開けた所に出た。西側が灌木林になっており風を防いでいた。そこは三十三間山が良く見える位置でもあったので、そこで休憩とした。漸くほっと出来ることになった。三十三間山を見ていると、見る間に雲が下がってきて、三十三間山を隠すようになった。その雲の流れを見ていると、山頂手前の笹原を含めて風の通り道になっているのが分かった。休憩していたのは30分ほど。その間に三十三間山の雲は消えて、陽射しが現れるまでになった。空の雲も薄い色になっており青空の部分が増えようとしていた。この日の天気予報は晴れだったので、昼となって漸く晴れ出したようだった。下山は分岐点に戻って、登ってきた尾根コースを下って行く。やや急坂の尾根だけに、下るのは速かった。足の下りるままにどんどんと下った。昼となっていただけに登ってくるハイカーとよくすれ違うようになったが、この山も前日の野坂岳と同様に人の訪れの多い山のようだった。それも夫婦松を過ぎると、出会う人はほぼ無くなった。この下山では最後の水場の位置でも一休みとしたが、一休みを終えてそばの丸木橋を再び渡ったとき、通行禁止になっていることに気が付いた。道理で危なっかしかった訳である。ここは沢の中を歩くのが正しいようだった。もう上空はすっかり明るい空になっていた。後は陽射しに光る沢を眺めながら、登山口へと戻って行った。
(2011/6記)(2021/7改訂) |